人類・現代の地球の歴史(1世紀~5世紀ローマ帝国の拡大と ローマ帝国の衰退)

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紀元前から紀元後にかけては非常にいろいろな事が起きているのと同時に、古代ローマ時代からローマ帝国への切り替わり、継続で考えると1000年以上も続いた大帝国でした。

また、イエス・キリストの誕生から死後にキリスト教が設立されるなど、世界的に非常に重要な出来事が重なった時代とも言えるでしょう。

その為、これまでのように多角的に取り上げていくには非常に勿体ない(個々の出来事が希薄になる)ので、ローマ帝国に絞った記事にしていこうと思います。

1-5世紀のローマ帝国年表

1世紀:ローマ帝国の拡大と繁栄 1世紀最初は、ローマ帝国はイタリア半島を中心とした地域に認められてました。政治的な安定と経済的な優位性を享受しました。また、この時期にはキリスト教が誕生し、急速に広まっていきました。

2世紀:帝国の狭拡大と継続的な繁栄 2世紀に入ると、ローマ帝国はさらに拡大しました。 特に皇帝トラヤヌの治世下では、帝国は最大の狭を有、最盛期を迎えましたこの時期のローマ帝国は、文化的な発展や公共建築の充実など、盛り上がりの時期でした。

3世紀:危機と分裂 3世紀に入ると、ローマ帝国は内外のさまざまな危機に耐える。時期には帝国は分裂し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と西ローマ帝国に分かれる形となりました。

4世紀:キリスト教の公認と西ローマ帝国の崩壊への道 4世紀初頭、キリスト教はコンスタンティヌス1世の統治下で公認されました。ローマ帝国の宗教的な風土を変えていきました。しかし、この時期にも内部の政治平和や軍事的な展望が続き、西ローマ帝国はやがて的な衰退の道をどりました。

5世紀:西ローマ帝国の滅亡 5世紀に入ると、西ローマ帝国は外部からの攻撃と内部の平和に敗北した。 476年には西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され、西ローマ帝国は事実上の終焉を迎えました。

これらの出来事は、ローマ帝国の拡大と衰退の過程を示す一連の重要な出来事である。 ローマ帝国の衰退後、東ローマ帝国は独自の道を歩み続け、中世のビザンツ帝国として優位を占めることになる。

古代ローマ時代からローマ帝国へ

ローマ帝国は、紀元前8世紀ごろに誕生し、1000年以上も繁栄した大帝国です。イタリア半島に誕生した都市国家から、地中海領域を支配するまでに発展しました。そのためローマ帝国の歴史は古代ローマ時代から続いています。

1世紀から2世紀頃の最盛期には地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝(アウグストゥス)が支配していました。

古代ローマは、共和制後の時代以降、イタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展していきました。その後、紀元前27年にアウグストゥスが即位し、帝政が始まりました。

帝政初期には、1世紀から2世紀頃に最盛期を迎え、「パックス=ロマーナ」(ローマの栄光)と呼ばれる時代がありました。その後、西暦395年にローマ帝国は東西に分裂し、「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」となりました。

1-2世紀のローマ帝国

1世紀のローマ帝国は、領土を拡大し、地中海沿岸全域に加え、ヨーロッパはヒスパニア、ゲルマニア、ガリア、ブリタンニア、クリミア、北アフリカ一帯、西アジアではメソポタミア、シリア、アルメニア、ペルシア西部などをはじめとする広大な地域を中心とした大規模な領土を皇帝が支配していました。

1世紀には、ローマ帝国の皇帝として、アウグストゥス(前27年 – 14年)、トラヤヌス(98年 – 117年)などがいます。

有名な物語としては、『イリアス』や『オデュッセイア』などの古代ギリシャの叙事詩があります。これらの物語はローマ帝国でも広く愛され、影響を与えました。

また、ローマ帝国には多くの有名な人物がいます。例えば、詩人のウェルギリウスやホラティウス、哲学者のセネカやエピクテトス、歴史家のタキトゥスやスエトニウスなどが挙げられます。

2世紀のローマ帝国は、五賢帝の2人目であるトラヤヌス帝の末年までに、領土が最大に拡がりました。

イリアス

『イリアス』は、古代ギリシャの吟遊詩人ホメロスによって作られたとされる英雄叙事詩で、ギリシャ叙事詩の最古の作品の一つです。紀元前8世紀頃に口頭伝承を書写して作られたと考えられており、後世に編集され、全1万5639行が24巻に分かれて書かれています。

この物語は、ギリシャとトロイの間に起こった10年間に及ぶトロイア戦争の10年目の51日間、アキレウスの怒りから始まりイーリオス (トロイア)の王子ヘクトールの葬儀までを描いた叙事詩です。

「トロイア戦争」は、紀元前13世紀頃、現在のトルコ北西部にあたる小アジアに建国されていたトロイア王国と、ギリシアの都市国家ミケーネを中心とするアカイア人の遠征軍が、およそ10年にわたって戦った戦争です。

アキレウスは、ギリシャ神話の英雄で、プティーア王ペレウスと海の女神テティスの息子です。彼は足が速く、武力に秀でていました。トロイア戦争でギリシャ連合軍の武将として活躍しましたが、アキレス腱を射られて死にました。

ヘクトールは、ギリシャ神話の英雄で、トロイアの王プリアモスとヘカベーの息子です。彼はトロイア戦争において、トロイア勢最強の戦士でした。

オデュッセイア

『オデュッセイア』は、古代ギリシャの詩人ホメロスによって作られたとされる英雄叙事詩です。この物語は、トロイア戦争後、ギリシャの英雄でイタケの王オデュッセウスが故郷のイタケに戻るまでの10年間の困難に満ちた漂流と冒険の帰路の旅が主体となります。息子のテレマコスが父オデュッセウスを探す旅や、オデュッセウス不在中に妻ペネロペへ遺産目当てで求婚した40人の男たちへの報復の話が語られています。

『オデュッセイア』は、物語が複雑で変化に富み、冒険談的要素やお伽噺的要素が多くて親しみやすいため、文学的価値とは別に、昔からよく知られています。

オデュッセウスは、ギリシア神話の英雄で、イタケーの王(バシレウス)であり、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の主人公でもあります。彼は、トロイア戦争に参加し、知略を駆使してギリシア軍を勝利に導きました。トロイア戦争終了後、彼は海神ポセイドンの怒りに触れて長く海上をさまよいましたが、ついにイタケに帰って妻ペネロペへの求婚者たちを滅ぼし、またポセイドンをなだめるために神殿を建てました。

3世紀のローマ帝国

3世紀に入ると、ローマ帝国は内外のさまざまな危機に直面しました。この時期は「3世紀の危機」と呼ばれ、235年から284年までの約50年間に、約70人の軍人が皇帝(自称含む)となり、その大半が殺害されました。この時代は、「軍人皇帝の時代」とも呼ばれます。

ローマ帝国は混乱を極める中、東方では226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、皇帝ヴァレリアヌス (位253~60)は捕虜とされる、という事態に陥りました。

395年、テオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂してしまいました。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)

東ローマ帝国は、古代ローマ帝国が分割された後の東側の国家で、コンスタンティノープルを首都としていました。紀元前1世紀から4世紀までのローマ帝国の東部が独立したのが始まりで、4世紀から15世紀まで約1000年間存続しました。

キリスト教の国教化やローマ帝国復興を目指しましたが、ローマ教皇との対立やイスラム勢力の侵攻によって領土を失っていきました。ギリシア化が進んだため、ビザンツ帝国とも呼ばれることになりました。

東ローマ帝国は1453年に東方のイスラム王朝であるオスマン帝国による侵攻を受けて滅亡しました。

東ローマ帝国とローマ教皇の対立

東ローマ帝国とローマ教皇の対立については、多くの要因があります。 例えば、初期の時代には、東ローマ帝国はローマ帝国復興のためにキリスト教の国教化に務めていき、イタリア半島など旧西ローマ帝国の領土まで回復することに成功しましたが、時代が経っていくとローマ教皇の対立やササン朝ペルシアやウマイヤ朝によって侵攻を受けていきました。

また、1054年には、ローマ教会とコンスタンディヌーポリ教会は主にローマ教皇の教皇首位権を巡って対立が深まっていました。使節としてコンスタンディヌーポリを訪れていた枢機卿フンベルトはコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世キルラリオスの非礼に怒り、ミハイル1世キルラリオスとその同調者に対する破門状をアギア・ソフィア大聖堂の宝座に叩き付けました。これに対し、ミハイル1世キルラリオスは枢機卿フンベルトとその一行を破門しました。

他にも、東西教会の分裂は多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれます。分裂の年は、日本においては、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互に破門した1054年とされることが多いです。

キリスト教の国教化

初期の時代には、東ローマ帝国はローマ帝国復興のためにキリスト教の国教化に務めていき、イタリア半島など旧西ローマ帝国の領土まで回復することに成功しました。キリスト教の国教化は、東ローマ帝国がローマ帝国復興を目指す上で重要な役割を果たしました。

キリスト教は、東ローマ帝国だけでなく多くの国で国教化されています。例えば、ローマ帝国では、4世紀にコンスタンティヌス大帝によってキリスト教が公認され、テオドシウス1世によってキリスト教が国教とされました。また、多くのヨーロッパ諸国でも、キリスト教が国教とされています。

国教化とは、ある宗教を国家が公式に認め、その宗教を国家の宗教として定めることを指します。国教化により、その宗教は国家の保護を受けることができ、その宗教が広まることが期待されます。ただし、国教化により、他の宗教が差別される可能性もあります。

西ローマ帝国

西ローマ帝国は、古代ローマ帝国が分割された後の西側の国家で、395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。

西ローマ帝国は476年にゲルマン人オドアケルの圧力で幼帝ロムルス・アウグストゥルスが退位し、オドアケルが西ローマ帝国皇帝ではなくて、イタリア領主を名乗ったことにより滅亡したというのが定説です。

ローマ帝国の衰退と滅亡

5世紀のローマ帝国の衰退と滅亡は、内部および外部の犠牲によって行われました。以下にその詳細を説明します。

  1. 外部からの攻撃: 5世紀には、ローマ帝国は最大の展望と展望に落ち着いた。マンゲル民族の中でも、フン族、ヴァンダル族、オストロゴ族、ヴィザンティウム帝国(東ローマ帝国)など特に重要な役割を果たした彼らは少しの暇、略奪、都市の破壊などを行い、帝国の防衛に対する圧力を増大させました。
  2. 内部の政治的平和: 5世紀には、ローマ帝国内部でも政治的な平和が続きました。帝位継承における内乱や皇帝の暗殺などが頻繁に発し、政治的な安定が欠如しました。結局も帝国の統治能力を弱体化させた。
  3. 経済の衰退: ローマ帝国の経済は5世紀に入って急速に衰退しました。また、徴税制度における損失や浪費、一時の不安定さも経済を弱体化させました。これにより、帝国全体の生産力が低下し、農業や商業の停止、インフレーションが発生しましたの増加などの問題が発生しました。
  4. 社会的な変化と文化の変遷: 5世紀に入って、ローマ帝国の社会構造も変化しました。 農村部から都市への人口移動が進み、都市の貧困化や都市のインフラストラクチャーの維持が困難になりましたまた、ローマ市民権の付与や地方自治の強化など、社会的な変革も行われました。
  5. 最終的な滅亡: 476年、西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスは、亡ゲルマン民族の指導者オドアケルによって廃位されました。この出来事は、西ローマ帝国の事実上の滅亡とされています。で、ローマ帝国は東西に分裂し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は東部で独自の優位を続けましたが、西ローマ帝国の滅亡は古代ローマ帝国の終焉となりました。

これらの犠牲が組み合わさり、5世紀においてローマ帝国は衰退し、最終的に滅亡に至りました。

後書き

1世紀から5世紀の間、ローマ帝国はかなり拡大とその後の衰退を経験しました。 1世紀最初はイタリア半島を中心とした地域から出発し、最大の狭間拡大を達成しました。優れた指導のもと、政治的な安定と経済的な恩恵を享受しました。

しかし、3世紀に入って内外の危機が帝国を襲いました。 内部では政治的な平和と暴力が続き、外部ではパニックや展望が増大しました。ローマ帝国に分かれました。

5世紀に入ると、西ローマ帝国は外部からの攻撃、内部の政治の平和、経済の衰退によって徐々に衰退していきました。ゲルマン民族の脅威や経済的困難が帝国を圧迫し、476年には最後の西ローマ皇帝が廃位され、西ローマ帝国は事実上の終焉を迎えました。

この時代のローマ帝国の拡大と衰退は、多くの犠牲によって考えられた。古代ローマ帝国の終焉を意味し、後にビザンツ帝国として続く東ローマ帝国のみが独立して有利を極めることになりました。教訓によって、世界史において重要な一章となっております。

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